日本基督教団 下関丸山教会

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木曜日, 23.02.2012

「心の光をともす教会」 下関丸山教会

友川牧師コラム
「嗚呼、神さま?!」
2011年 3月 15日(火曜日) 23:33

「牧師室から」

2011年03月15日 友川 栄

 

 

11日(金)の午後某姉を見舞い、「エバーグリーンの会」にご夫妻で来られた某先生のご自宅を訪ねていた矢先に巨大地震の報道を知りました。震源地が宮城県県北という。それも想像を超えた大地震。宮城県県北は私の故郷です。忘れもしません、私が小学校5年生の時にもマグニチュウード4・5の直下型地震を受け一人が亡くなる経験をしました。それに米国のノースリッジの6・5の直下型地震(死者57名前後だったように記憶しています)を味わったものですから、地震が如何に怖いかは体が覚えています。

 

すぐに教会に戻り、仙台や宮城県の県北に住む、二人の兄、弟、姉、二人の甥(特に、一人の甥は塩釜在住です)と連絡をとるものの、未だに連絡がつきません。大変便利な携帯電話があってもつながらない。固定電話は「この回線は大変込み合っています・・・」と虚しく響くばかり。近くに飛んで帰りたい思いが募るばかりですが・・・ままなら無い。悶々としている状態です。私は15年以上を福島県の教会で育てられました。会津で11年半、福島市で4年間を過ごしました。そこで「牧師」の基礎を学びました。「牧師」とは教会員との交わりも大切ですが、共に神を見上げ「み言葉」に立つ以外にないと?!。

 

悩み、悲しみ、喜び、時には教会の重鎮から懇々と諭されることも。本当に生きた学びをいたしました。その学びは今も継続中です。「牧師」を辞めない限り、その学びは終わらないでしょう。喜多方教会、山都教会は大丈夫と聞き「ほっと」いたしましたが、福島市の教会も甚大な被害を受けたと聞いています。太平洋近くの浜どおりは、なおのことでしょう。当時は相双地区と読んでいました。小高教会、浪江伝道所、相馬教会、勿来教会、常磐教会、磐城教会などがあります。失礼ですが、多くは「小規模教会」です。年に一度先生方やクリスチャンの方々と教区総会で交わりを許されたものです。

 

多くの先生方は変わりましたが、教会は存続しております。教会員お一人ひとりの悲しみ、怒り、悔しさを思うと言葉がつまる。「嗚呼!神さま!」と祈るのですが、言葉が続かない、言葉にならない。唯ただ「嗚呼!神さま!」「嗚呼!・・・」と繰り返しています。祈る言葉がでてこない。先日亡くなられた小林先生は苦しいとき「神さま!アーメン!」と祈れと言われましたが、先生も修羅場を潜られたのでしょうか。「神さま!アーメン」「助けてください!」「救ってください!」と祈り続けている日々です。建物が無くとも、二人か三人が集って神を拝するなら、教会が立つ!。「嗚呼!神さま!」「二、三人」を助けて?!。

 
先走りして何も裁いてはいけません?!
2011年 3月 12日(土曜日) 10:22

「牧師室から」

2011年03月12日 友川 栄

 

「どきっ!」とする言葉ですよね。これはパウロがコリントの教会(新約聖書コリント(一)4章5節)のクリスチャンに警告した言葉ですよ。コリントにあった教会は多くの問題を抱えて、色々な課題で紛糾していた?!。完璧な教会はありえませんが、肝要なのはどう対処するかですよ。これが難問?!。パウロの書いた手紙は、分派や道徳の乱れ間違った教えに流されるクリスチャンに対して書かれたもの。問題が無ければ、パウロの手紙は聖書に加えられなかったでしょうなぁ。これも神の不思議な導きとでもいいましょうか?!。

 

特に、コリントの教会は乱れに乱れていたようですよ。世俗的には「ごく普通」だったようですが・・・。私は「ケファに」「アポロに」「パウロに」「キリストに」(1章12節)といいたい放題。神を畏れずに、自分が正しい、あの人が間違っていると主張する伝道者、クリスチャンがいたらしい。古今東西変わらない強欲ですよ?!これを危惧したパウロは伝道者として書いたのがコリントの手紙です。同じ牧師の端くれとして多少分かりますなぁ。これは、今でも「ひょい!」と顔を出す「高慢?」「嫉妬?」「怒り?」「自己主張?」。

 

「ケファに」「アポロに」「キリストに」という噂を聞いたときに、パウロは人間として嫉妬を感じたでしょうなぁ。全てのクリスチャンは「キリスト」を信じているのですよね。「キリストに」が、どうして問題になったのでしょうか?。でも、少し分かるような気がしませんか?。何か問題が起こったとき、「あの人」も「この人」も同じことを言っている、と他人を「ちくり、ちくり」と攻撃する。「キリスト」の名を借りて自己正当化するのでは???。その危険性をパウロは見抜いていたのですよ。パウロはどうして、そのようなことに気付いていたのでしょうか?。

 

自分の罪深さを知っていたからですよ。直ぐに「高慢」になり「人を見下す」人間であることを実感していたのでしょう。不幸か幸いか、パウロは肉体的にハンディを持つ、持病持があったらしい。正義感も人一倍強く、「糞真面目」(私と同じ?先生それは嘘でしょう?野放図では?それをいっちゃ!おしめ~よ!)。実は、正義感が曲者?!。自分に厳しい人は他人にも厳しい。正しいと考えると他人の欠点が「大きく」見えてくるもの。が、パウロは他人の裁きを意に介せず、自分を裁くこともせず「わたしを裁くのは主」と断言する。神のみを畏れる信仰?!。凄いなぁ!と溜め息がでる。すべて人間ができると考えると瓦解を?!。ゼロから始める。それが、神の前に立つこと!。違いますか・・・?!

 
今日は、孫ちゃん・・・?!
2011年 2月 26日(土曜日) 11:56

「牧師室から」

2011年02月26日 友川 栄

 

2月15日(火)の正午過ぎ、長男夫婦に待望の「初孫」が生まれましたはぁ!。思わず「万歳!」三唱を。心の中で「恵多」「由美さん」有難う~と合掌しましたよ。予定日より一日遅れの出産です。私と妻も正真正銘の「オジン?」と「オバン?」になってしまいました。早く「初孫の顔」をこの目で見たいよ~?!という感じでしょうか。理屈無しに「可愛い」とか?言いますが、本当ですか・・・?、経験者の先輩たち???。

 

自分の子どもは「子育て」「教育」等で責任があり必死ですが、「孫」は「可愛い!」「いい子だね!」と言っていればいいのですから・・・。要は「例のもの?」がいらない・・・。

 

でも最近は「骨まで」(愛する?のではなく)かじる???人がいますので「はらはら、どきどき!」ですが・・・。それにしても、私と妻に三人の子どもが授かったことを心から感謝していますよ。最近子どもを「作る」と言いますが、馴染めませんねぇ。子どもは、矢張り神から「授かる」ものでは?!。夫婦も子どもも神から与えられるものですから。

 

長い間「金欠生活!」を甘受しましたが、振り返れば三人の子どもにはベストの環境でしたね。取っ組み合いの「大喧嘩」しても「教会員」は寛大そのもの。特に、カビの匂いがする「牧師館」が良かった・・・。三人の子どもたちは「やりたい放題」暴れても「牧師館」は「無言」で受け容れてくれましたから。障子に穴を空け、襖は破れ大きな風穴が・・・「破れかぶれ?」ですはぁ。これでも「牧師家族?」と呆れるほど?。某教会員は「破れかぶれ牧師家庭?」と考えていたのでは?!。「はちゃめちゃ」説教は今も健在???。

 

「恵多」と妻の「由美さん」は「もう一人」授かりたいと願っている様子、有難いですね。「神さま、どうか子宝を?!」などとおねだりしたりして・・・。「これはいかん!」「ぺテン牧師になりさがってしまう?!」と言い聞かせ「祈りなおす」こともありますよ。でも、家族が増えることは「嬉しい」限りですはぁ。喜びが倍増しますからね。悲しいときには「悲しみ」を分かち合うことで「悲しみ」が半減する。これは私の実感。一昨年のクリスマス直前に、妻が緊急入院したときに恵多と妻の由美さんが駆けつけてくれ「共に嗚咽!」を?!。あのとき「嬉しかった?!」なぁ・・・。「強がり」や「競争」ばかりが横行する時代にあって「破れそのものを」を分かち合える人が一人でもいるといい・・・。「信仰」も実はそういうことでは・・・。「今日は、孫ちゃん・・・!」といきますか?!。

 
「道半ば・・・?!」
2011年 2月 14日(月曜日) 08:00

「牧師室から」

2011年02月14日 友川 栄

 

 

昨年は政治、経済とも「迷走?」「重苦しい?」何とも表現ができない閉塞感が漂う一年でしたね。恐らく、今年も厳しい年になるでしょうか。某教団は昨年に議長、副議長、書記が代わり、「伝道」に邁進する三役で占める結果となりました。「福音派」「社会派」という区別には不賛成ですが、「福音派」中心の人選になってしまったという感は否めません。「伝道」することに反対ではないのですが「伝道」は人間相手で「ロボット」ではありませんよ。そう簡単ではない。教会は営利目的の企業と違う?!。かつて米国で教会成長という言葉が飛び交い「メガ・チャーチ」が出現しましたが、昨年その「本山」が「破産宣告」を・・・。資本主義的発想に便乗した末路ですよ!。大教会だけがいいとは言えない?!。

 

クリスチャンもこの世に生きているのですから、政治、経済に関わらなければ?!。聖書を精読すると分かりますが、国家が間違った行動をするような場合には警鐘を鳴らしている。特に預言者などは痛烈そのもの。神を信じる者は、平和、正義、生命、環境に関する問題には積極的に関与していかないと駄目ですよ!。教会は「政治」に関わっていけないという風潮がありますよね、かつて私もそうでした。でも米国合同教会に派遣された時から、変わりましたね。湾岸戦争が勃発した時には、小さな地区でしたが即刻「反対声明」を出席者(反対の人もいましたが・・・)で草案して大統領あてに郵送をしました。

 

米国にも色々なキリスト教があり「悪の枢軸」を倒すためには戦争も辞さない、「保守的」なキリスト教もありますので、一枚岩ではない?!。「クリスチャン」になれば、世の中が良くなるというのは甘いですよ。「クリスチヤン」になるとは、実はイエス・キリストに従う者になること!。「なる」ことが大切・・。キリストに倣うとは「自分の自我」が厳しく崩されるもの。欧米人に倣うことでも、問題や試練や痛みが無くなることでもありません。むしろ、「マイナス」から「ぶつかっていこう」という原動力を神から与えられる。

 

いつも「笑顔」を絶やさない「クリスチャン」を求める「牧師」や「教会」がありますが、違和感を・・・。そういう「教会」に限って「牧師」がワンマンになり「教条主義」になりやすい。色々な賜物が不可欠なのに「賜物」の芽をつぐむ。「牧師」の思いや教会の「伝統」に合わない理由で!。もしかすると「クリスチャン」「牧師」「教会」も罪を犯すという「危険」を弁えていないと「怖い」?!。神の前に「完璧」なものなど皆無?!。「熟年牧師?」になれば「主?」になりやすい、これが最大の危機?!。いつも「道半ば?!」。神に導かれ「今、ここ」を精一杯努力して生きていきましょうよ?!。「道半ば」でも?!

 
「ヤバイ?!と心に叩き込んで!」
2011年 2月 02日(水曜日) 11:49

「牧師室から」

2011年02月02日 友川 栄

 

水曜日の祈祷会に出エジプト記を続けて学んでいます。祈祷会で学ぶのは二度目になりますが、実に豊かな集いですよ。かつて熱心に出席していた某姉妹も入院したために、人数が少なくなりました。某姉の「何にも出来なくなりましたが、祈ることだけしか出来なくなりました・・・」という祈りに、時折「ぐっと込みあがるもの」を感じたものですよ。祈祷会で一番励まされる時。一人ひとりの祈りで力を与えられる。牧師冥利に尽きるなぁと感じる時ですよ。「このまま天に召してください・・・」という某兄の祈りに「ひやひや」されることもありますが・・・。

 

今も病院で「牧師」や「教会員一人ひとり」を覚えてお祈りしていることでしょうか。下関丸山教会の底力はこういう教会員がいることですなぁ。おそらく某姉も若い頃は想像を絶するご苦労をなさったはず。でも、お互いに支えあう信仰の友がいたことが大きな力になったこと言っております。お見舞いをする度に「先生!私は本当に教会に行って良かった?!」といい続けている姉妹。一体どっちらが「牧師」なのか?!。私は「強面牧師?」某姉は満面の笑顔ですから。牧師はこういうメンバーに育てられるのですね。

 

還暦を越えても「生きた学び?」は終わらない。勿論、教会の礼拝出席者が多いほうが嬉しい・・・。でも、大教会のメンバーは「お客様」が意外と多い。よくとれば他人に干渉をしない。悪く言えば「自己中?」で他者に無関心になりやすい。自分のことで「精一杯?!」ということでしょうか。「教会」は一人ひとりのクリスチャンが色々な賜物を活かすところ。高齢になり「何にも」出来なくても、人を励ますことは出来る。「有難うねぇ!」「本当に、助かります!」「御免なさいね!」「感謝!」という一言が人の背中を押す。

 

私が「いなければ?!」ことが進展、発展しないという考えは「傲慢」の極みですよ。特に「教会」は見えない「神」が生きて働き、成長してくださる。私たちが出来るのは「種を蒔き」「水を注ぐ」だけですよ。それに徹すればいい。実りを刈り取ることもありましょうが、稀ですよ。誰かが、種を蒔き、水を注いでくれたことを忘れてはいけない。大切なことは、神が「教会」と「私たちの人生」の只中にいて、導いておられることを信じること?!。「伝道!」「伝道!」というスローガンが「信徒獲得?」「教会拡大?」のみに走ると「人間主導教会?」に陥る危険性がある。「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:8)これを弁えないと「ヤバイ」?!

 
「人の絆は崩れるが、BUT・・・?!」
2011年 1月 19日(水曜日) 23:55

「牧師室から」

2011年01月19日 友川 栄

 

某新聞が「孤族の国」と題して連載をしております。現代日本の何とも言えない「暗部」を報じている。「家族」があってももう「絆」が希薄化しているという。確かにそうですね。私は7人兄弟(長兄は既に亡くなりました)ですが、勿論一年に一度は年賀状を書いたり時折連絡を取り合ったりしていますが、「例のも?」の相談はもう出来ません。還暦を迎えるとさすがに自尊心が邪魔をして、もう頼めませんはぁ?。お互い経済的に余裕がないのが現状です。これが子どもの教育費や介護費用などになると「びびりまくる?」ですよ。

 

悲しいことは「弱音を吐ける」ところがないことでは?!。「家族」はもう「受け皿」になれない現実があるのでしょうか。結婚をしない選択肢もあり、それも尊重をしなければいけない時代です。でも、若いときの独身は気楽でしょうが、年を重ねていくと孤独という「底なし沼」が待ち受けている。また、子どもがいても結婚すれば「家庭」が第一になってくるでしょう。それに「共働き」がごく普通ですから、両親の世話をする余力と経済的な余裕すらない。特に、介護は目が離せません。お互いに「へと、へと」ですよ。

 

「教会」はよく「兄弟姉妹」と言いますが、そこまで支え合うには、ほど遠い?・・・。でも、少なくとも「ありのまま」を受け容れ「ありのまま」の姿を晒せる「教会」でありたいですね。かつて、ある方から「先生、教会では笑顔を作らなければいけないのでしょう」と言われた時、意図していることが全然分かりませんでしたねぇ?!。他人事でしたから。人間は自分で体験してみないと分からない・・・。湯河原にいたとき、身をもって知りました。人が笑っているのが耐えられないのですよ?!。「にこ、にこ」している人を見ると自分が惨めになる。「家族」内での「孤独」は更に深刻でしょうね?!。

 

「教会は他者のために」とよく言われますが、実は「弱さをしっかりと受け止める」場が「教会」ではないでしょうか。「教会」は人を「模範生?」にする養成所でもありません。「クリスチャン」とはイエスさまに縋りついて生きている者。「弱さ」や「悩み」や「辛いこと」を聞き届けてくれる神を知っている人が「クリスチャン」。そういう人々が集うところが「教会」。でも「教会」は閉鎖的で「敷居が高く?」ありません?!。イエスに従った人は「しっかり」と自力でやり通せた人でしたか?。「才能がなく」人々から「駄目人間」と思われた人々がイエスに救われたのでは?!。「救い」とは「人格者」や「尊敬に値する人」になることではなく「ありのままの自分」を神が受け容れていること。人の「絆」は崩れるが、神の「絆(愛?)」は永久に続く。そのような神を崇める「教会」でありたい?!。

 
「捨てるが、勝ち?!」
2011年 1月 04日(火曜日) 20:15

「牧師室から」

2011年01月04日 友川 栄

 

妻が足腰に痛みを覚えたために某鍼・灸マッサージ「・・・アロエ?(失礼をば!アロマでした)」に通院しています。そのお陰で二本足で恐る恐る歩けるようになりました。1年以上も入院していると体全体の筋力が低下して歩行も困難になるのですね?!。体は、背筋、腹筋等の数え切れないほどの筋肉で支えられているが初めて分かりましたよ。筋力アップのために、某病院のリハビリテーション科に入院することになりました。またまた入院ですはぁ。「年寄り牧師(某姉にそう呼ばれていま~す!サンキュー?!)」が一人暮らし出来るようにとの予行演習でしょうか?。神は神業をなさいますねぇ!。

 

一人暮らしは本当に寂しいものですよ。特に、男性は駄目ですなぁ?。どうして女性は強いのですかね。生命力に長けている?!。3人の子どもが小さい頃は、教会の牧師、幼稚園の園長、英会話教室の教師、それに父親でしたから目が回るような忙しさ・・・。食事の時は、言葉が「飛び交い」混沌状態?!。時折、派手な「兄弟喧嘩」や「夫婦喧嘩」もありましたので、とても「模範牧師家庭?」とは言えませんはぁ!。ほぼ毎日就寝前、子どもたちに「絵本」の読み聞かせを続けました。「パパ、これ読んで!」と、子どもたちにせがまれ「読まざるを得なかった」のが本音ですが?!。

 

今振り返ると、懐かしい思い出。読んでいる途中で「Zzzz」と爆睡をすることも度々。妻が元気で家事、洗濯、掃除、子育てを一手に引き受けてくれたから出来たのでしょう。人間は身勝手ですね。子どもが巣立っていくと「嬉しさ」半分「寂しさ」半分ですから。逆に巣立っていかないで、いつまでも「脛を齧られる」と、これまた困りますねぇ。その点、私はラッキー?!。親はもう当てにならないと「見切った」のでしょう・・・。「齧り」たくとも「例のもの?」がありませんから、齧れません。子どもに、SOSを出し「齧る」「情けないオヤジ?」ですから始末におえない。「教会会計?」に齧ったりして・・・?!。

 

娘はロンドン、長男は東京、次男は横浜に在住。「遠いよ~!」。下関から新幹線で東京へ行くよりも、ハワイに行く方が早い?と思うほど。でも不思議なもので「住めば都」。関門海峡を行き交う汽笛の音も「ボー!」が「へぇ~!」とか「およょ~!」と聞こえますから。嬉しいことに教会のメンバーも幾分溌溂としてきました。神の恵みです、これは?!。神のなさることを侮ってはいけませんよ。御心は、分かりませんから。福音の種蒔きに徹しましょう。力まず自然体で?!。「クリスチャン」にしてあげようという驕りは捨てましょう。人間には不可能?!。「捨てるが、勝ち?!」。「今」を感謝して生きていけばいい?!。

 
「ぶっきらぼうなんだから?!・・・」
2010年 12月 27日(月曜日) 22:48

「牧師室から」

2010年12月27日 友川 栄

 

 

「先生の電話応対はぶっきらぼうなんだから?・・・」と苦言を呈されました。内心「ど~ん」と落ち込みましたね。実は「電話応対」には自信満々?!。妻に聞くと時々「事務的でそっけない?」と・・・。「が~ん」と奈落(地獄?)に落ちる感じでしたね。深刻な相談となると傾聴をする、実は?!。偽善者牧師?ですはぁ。それに事務能力がないとくる。「牧師失格やなぁ?」と思うことも。「先生は凄い!」「洗濯、家事をしてくれて有難う!」と褒められると天にまで登る気持ちに「へこんだり」「のぼせたり」の日々ですよ。

 

何事もそつなく「てきぱき」とこなす「先生」もいますよ?!。「書記」などは凄いなぁと思う。「羨ましいなぁ!」と妬むほど。でも落ち込んでばかりはいられません。次から次へと仕事が飛び込んでくる。「神様、後は宜しく!」「何が御心なのですか?」と神に問いながら気ぜわしく動いている昨今。でも何時も心の片隅では「牧師とは?」「教会とは?」を問い続けていますよ。これが出来る、あれが出来ない!悔しいなぁ!羨ましいなぁ!と自問自答しながらですが?!。しかし、今、ここで「イエス・キリスト」に従うとはどういうことなのか?を何時も真摯に受け止めたいなぁ、と考えていますから。

 

人間は罪人。ある方は「罪とは自己追求」だと書いています。神をだしにしても自分の思いを成し遂げようとする。人間には、得手、不得手がありますよね。人間関係を壊すようでは駄目でしょうが、表面的なテストで「人間の資質」を評価するは如何なものでしょうか。しかし、営利団体ではそれが「リトマス試験紙」になる。ノルマを達成出来ない人(うだつの上がらない人?)は無能とされるでしょう。イエス・キリストはどうだったのでしょうか。世間から無能とされていた人と食事を共にしています。罪人として蔑まれた人々と何の偏見もなく暖かい交わりをも?!。世間の価値観と逆ですよねぇ。

 

イエス・キリストが「教会の頭」。「教会」も罪人の集まりですが、クリスチャンは意外と「生真面目君?」が多い。そういう人に限って案外「主張」を曲げない。「意見の衝突」「感情のすれ違い」が起きる。でも、根底にイエス・キリストに従う姿勢がないと「協会(狂会?)」となってしまう。企業の論理や営利目的の集団になりさがる。クリスチャンは矢張りイエス・キリストに倣わなければ!。名声やお金(そこそこで甘受しましょう!)に翻弄されてしていませんか?。イエスの最後は十字架?!。捨てられ、他者の罪を一心に引き受けた。雑巾ですよ。「雑巾牧師」「雑巾クリスチャン」「雑巾教会」はお呼びじゃないですか?!「ぶっきらぼうなんだから!」ですか?矢張り?!。

 
「のーびる賞(症?)!」
2010年 12月 16日(木曜日) 20:57

「牧師室から」

2010年12月16日 友川 栄

 

ちょっぴり背伸びして「英語聖書を読む会」を始めたのですが、出席者の都合がつかず延び、延びになっています。もしかして「ぽしゃ?」になるかも、と心配していますよ。矢張り最後は「またまたお流れ」で、万事休すでしょうかねぇ?。でも当教会メンバー曰く「のーびる賞(症?)」だとか。「ノーベル賞」ではなく「のーびる賞」ですから。余り焦らずに「じっくり」と進みなさいということでしょう。先見の明に、思わず拍手を?!。これには能天気の私も「完敗」ですはぁ?!。

 

「ユーモア」が通じる教会はいいですよ。「あの牧師大丈夫?」「ついに箍が外れた?」と軽蔑している人も多いでしょうなぁ。「牧師」や「クリスチャン」と聞くと「生真面目」で「堅物」というイメージがありますから。全ての「牧師」や「クリスチャン」がそうではありませんから、ご心配なく?!。「クリスチャン」は「融通がきかない」「不自由」「視野が狭い」とお考えでは?!。私も少し前までは「かちかち牧師!」でしたから、偉そうなことは言えませんが・・・。「こちこちクリスチャン」もいますが、柔軟で「ほどいい柔らかなクリスチャン」もいますので、ご安心を。

 

「糞真面目なクリスチャン」は意外と怖い、実は?!。決まり、規則、伝統(無視は出来ませんが!)に凝り固まって、それが「神」になると危ない。それだけが正しいと譲らない。用心しなければいけないのは「人間の正しさ」を「神の義」と履き違えること。自分の信念や思い込みで「神を操り」始めると「やばい!」。ここが思案のしどころ。人間は「ああでも?」「こうでも?」と悩むもの。色々な繋がりで生きているのですから、自分の意見を通そうとすると事が進まない。神の御心を探りながら、衝突したり、赦したり、折れたり、筋を通したり、逃げることも許されるのですから。

 

信仰も同じですよ。「クリスチャン」も「ノン・クリスチャン」と同じ人間。「脱人間」宣言をすることではありません。「クリスチャン」になれば「悩み」「試練」「痛み」が無くなるというのは、一つの幻想ですよ。「クリスチャン」になれば喜び溢れますが、いつもとは限りません。私などは「失敗」の連続ですよ?!エベレストのような眉間皺の「強面牧師?」。「アントニオ猪木」のように「だぁっ―!」と吠えたくなることもある。自分が如何に「弱く!」「いい加減!」「人を傷つける?」こともあり得ることを弁えているのが「クリスチヤン」では???。神が示してくれるまで「ゆったり」と待つのも大切。それまで「のーびる賞(症?)」で行きましょうよ?!。

 
「メリークリスマス!」
2010年 12月 06日(月曜日) 08:00

「牧師室から」

2010年12月06日 友川 栄

 

教会の暦では11月28日から待降節(アドベント)に入りました。イエス・キリストの誕生日をお祝いするクリスマスを待つ季節です。一人ひとり忘れられないクリスマスがあることでしょう。編纂したら素晴らしい本になるかもしれませんよ。米国の西海岸では、10月末のハロウィンが終わると、街路樹や家々にクリスマスのイルミネーションが一斉に点灯し始めます。「あぁ!クリスマスが近いんだぁ?!」と心が弾んだものです。

 

私の最高のクリスマスは2008年のクリスマスです。某教会の牧師を心身ともに疲れ果て突然辞任をした年。内心「牧師を辞めよう」と思っていました。牧師も結構辛いもの?!。幸い湯河原教会のK牧師が新米牧師?として「拾って」くださいました。礼拝出席者が4~5名ほどの小さな教会です。経済的に困難な教会にもかかわらず、月一度の「説教」に多額の御礼をいただき「感謝、感激あめあられ?!」。礼拝後の「無銭飲食」も経済的に大助かり。バス代も節約して徒歩で往復を・・・。お陰で「メタボ」も解消?!。

 

湯河原は「温泉街」で、土曜日や日曜日になると「どっと」行楽客が来る。皆さん表面は「笑顔」・・・。初めて「人の笑顔」を見ることが「辛い」という体験をいたしました。おそらく温泉街に来る方々も色々な問題を抱えていたでしょう。「溜まった疲れ」を一時温泉で癒すために来たのでしょうが、「追い詰められた」人にとっては「笑顔」や「笑い声」が耐えられないものなんですよ。そんな折に妻も一緒に心病んでいきました。

 

妻の方が更に深刻?!。長男の結婚式まで気が張っていたのでしょう。気丈にしていた妻でしたが、クリスマス礼拝も共に欠席。公園で二人寂しくクリスマスを祝いました。その翌日に「緊急入院」。今でも忘れられないクリスマスです。賛美歌を歌いながら「嗚咽」を?!。「どん底」まで落ちたという無力感。人生は修羅場を幾度か経験するのですね!。毎朝、毎朝、日の出を見ながら「なぜですか?」「どうして妻が?」「なぜ、今?」と繰り返し神にすがりつく日々?!。祈りに祈りましたが、願いは適えられませんでした。

 

そんな折に「下関丸山教会」から招聘をいただく。神は不思議な道を開いてくれました。「苦しみます?」の「クリスマス!」でしたが、神を身近に感じた最高のクリスマス?!。あの試練が無ければ他人の「痛み」を少しも分からない牧師で終わっていたことでしょう。「苦しみます?」を体験したクリスマスでしたが、神の臨在を知らされた畏れと喜び。神は生きていることを肌で感じました。「メリークリスマス!」と謙虚に頭を垂れたい?!。

 
「続ける・・・!」
2010年 11月 25日(木曜日) 21:52

「牧師室から」

2010年11月25日 友川 栄

 

下関丸山教会は11月21日(日)に創立106周年の記念伝道礼拝を守りました。NHKの「プロフェッショナル―仕事の流儀」に出演した奥田知志先生(東八幡キリスト教会牧師)を講師として迎えメッセージをいただきました。奥田先生の深く力強いメッセージに、新しい一歩を歩み出すことができ感謝しています。傲慢かもしれませんが、地域の課題を担いながら、高齢者や病んでいる人や労苦している方々に開かれた教会として歩んでいきたい、そう願っていますよ。

 

どの組織も設立するには困難を極めますが、健全な運営維持を続けて行くのは更に大きなエネルギーが必要なもの。教会も同じですよ。しかし教会は企業や営利団体とは根本的に違う。目に見えない神を崇め、礼拝をささげる所ですから。利益を上げたり、気心の合う人が集う所ではありません。「お堅い人」「柔らかい人」「不自由な人」「朗らかな人」(私の場合は、好い?加減牧師?!)などが集い神を礼拝する。そのため「人間の知恵」で維持するのは不可能。聖書を通して神に聴き、祈り、イエスに従いながら「教会」が「教会」となっていく。「お偉い牧師?」「大重鎮」(私は提灯?)が牛耳ると「教会」が堕落する。

 

「伝道!」「伝道!」と声高に主張する人がいますが、一筋縄ではいかないですよねぇ。子どもや家族に信仰を伝えることは容易ですか?。もう諦めている・・・?。いけませんなぁ!。クリスチャンなら「伝道」するのは当然なことですが、「伝道」とは「ロボット」に伝えるのではなく、人間相手ですよ。人間は悩む、揺れる、疑問を持つ。多くは「神」の存在すら「疑問視」している。「自分」が一体何のために生きているのか、何をすべきなのかが分からない時もある。人生は修羅場の連続ですよ。喜び、悲しみ、躓き、転び、立ち直る。信仰をもてば「ばら色の人生」が開けると考えるのは浅薄ですよ。

 

人間として生きていくことは小さな「傷」大きな「傷」を負うことを覚悟しなければいけない?。時には人を「傷つけ」また「傷つけられる」ことも・・・。それを回避しようとするから「草食人間」(私は「ふにゃふにゃ牧師」?)になってしまう。教会も罪人の集りですよ。この世に「完璧な教会」などあり得ない。「正しい信仰」と確信した時こそ、実は危ない。「教会」も同じですよ。初代教会や宗教改革の教会も問題が山積していましたから。問題の無い教会こそ「お目出度い教会?」?!。延々と「内紛続き」では疲労困憊しますが!。「教会」を形成するのは継続が肝要。神にすがり、問い、祈り、話し合い、学び続ける。時には、「休み」「力を抜く」ことも必要?!。その連続ですよ。神に傾聴して・・・。

 
「生きている?!・・・」
2010年 11月 08日(月曜日) 18:15

「牧師室から」

2010年11月08日 友川 栄

 

 

某兄から朝と夕方ほぼ毎日のように「生きている?!・・・」とお電話をいただく今日この頃ですはぁ。以前は愛犬と「だべる?」以外に、人間と一言も言葉を交わすことがなかった日があったとか・・・。リッチな携帯電話を勧めたばかりに、操作説明のため時折呼び出しを喰らうことも???(止めておけば良かった◎◎◎、私の携帯より難しい××△?!操作が最大の関門(海峡?)?!。

 

「これでしょう?」「あれ?可笑しいなぁ?」「ここを押すと?」「なんで???動かない?」「分からないなぁ?」二人で「・・・」と押し問答をすることも。携帯は便利ですが、高齢者には難解そのものですはぁ。私も立派な「オジン仲間!」ですから・・・。でも、これも牧師の仕事ですぞ?!。教会用語で「牧会?!」。聖書を熟読することや祈ることも喜びですが、教会のメンバーや隣近所の方々と四方山話をすることも一つの立派な「伝道」。

 

一緒に悩むことも一種の「伝道」ですから。洗礼を受け「クリスチャン」になってくれれば嬉しいですのですが、それは「神のみ業」?!。神に任せればいい・・・。自分で何とかしようと「しゃしゃり」出るから、頓挫(私はトンマ?)する。「クリスチャン」になっても卒業してしまう人が何と多いことか?!。「クリスチャン」になるとは「進行形」ですよ?!。喜び、悩み、立ち止まり、揺れながら神にしがみつき進む以外に道はない。神に捕らえられながら。人生は、失敗、頓挫、時には大津波や暴風雨が吹き荒れることも・・・。

 

試練や挫折を通して「信仰」が研ぎ澄まされる。他人の優しさが身に染みる。「神の威力」を味わうのも、底なしの地獄を歩んだときでは・・・。神の恵みが言葉では表現できないほど身近に感じるのは「人生の修羅場」で垣間観るもの。手にすることは出来ませんが、神が見せてくれる。「クリスチャン」はその喜びを知っている。パウロが言う「弱いときにこそ強い」(Ⅱコリント12:10)は「嘘」ではありませんぞ?!。

 

でも、「クリスチャン」も人間。安楽な道を通ろうとする。隣の芝生が緑に見える。財産、名声、地位、老後の安全保障?等が「パラダイス」と錯覚を???。誘惑が多いですなぁ?!。私は「泡?」で「あわて?」まくり?!。幻想に踊らされてはいけませんぞ!。「お呼び?」がくれば、裸で行く?!。「後世に名」を残したい「お偉い先生」が何と多いことか・・・。「教会」は「某先生の教会」と呼ばれるようではもう「死体」?!。神の名だけが残れば良しとしましょう。「生きている?!・・・」と「主にある交わり?」を続けたい・・・。

 
「困ったなぁ?!・・・」
2010年 11月 02日(火曜日) 12:23

「牧師室から」

2010年11月02日 友川 栄

 

 

「・・・なんで?如何したら良いんでしょうか?・・・」このような相談を受けることが多々あるんですよね。悩みはそれぞれ違う。内心「困ったなぁ?!」と思うことがある。深い悩みを抱えている人に「聖書」はこう書いている・・・。某先生はこう説いている等と「お説教」しても始まらないのですから・・・。揺れる「気持ち」をそのまま受け止めることが大切なんですよねぇ。悶々としている「思い」を汲んで欲しい。お先真っ暗な人は藁をも掴みたい?!。

 

牧師(私は失敗の連続ですが???顔は惨敗もの?!)は何か教えなければと考える。先走りして、アドバイスをしたくなる・・・偉そうに??(私かも?!)。些細な問題の場合は、それでもいい。でも、深刻な悩みを抱えている人ほど「答え」は欲しいとは思わない。悩みには「正解の答え」は無い?!。色々教えをいただいてもどうにもならないから、相談に来ているのですから・・・。その見極めが結構難しい。こちらが構えると話が進まないことも。時計を気にし始めると、もう「聞きたくない」と気付かれてしまう。

 

最近ある本を読んでいましたら「はっと」しましたね。「キリストはどこでも働く」とでも訳せる題名の本ですよ。「教会」「信仰」を考えるときに、今でも欧米の古典的な「教会論」「信仰」から学ぶことが多いが、あくまでも「参考」ですよ?!。16世紀の宗教改革者から深く教えられるが、彼らの神学を「神聖化」してもいけないんですよねぇ。宗教改革者はそれを望んでいない?!。今、ここに立っている「教会」の風土や気質を模索しながら、神に祈り問いながら進む意外に道はない・・・。神に問われながら「祈り」「対話し」時には「困ったなぁ!」と立ち止まることも。想像を超えるほどの激しい「神への祈り」を通して、初めて神の御旨が分かるもの・・・。

 

某教会では「メンバー」になる時に、牧師への「批判はご法度」と約束をさせられるとか?!。怖いですねぇ。(先生の場合は顔が威嚇を?!)これでは「狂会?」ですよ。時には、牧師の「リーダーシップ」も必要でしょう。いつも「おろおろ」では混乱を招くでしょうから。しかし「教会」は人間の「リーダーシップ」では「どうにもならない」ことがあることを弁えないと危ない?!。「才能」があり「話術」に長けていても、人間は所詮「土の器」?!。それを「忘れる」と暴走してしまう。「霊的」「厳か」「和気藹々」「活気」以上に「困ったなぁ?!」と四苦八苦することが多い。そこで「神の声」を聞き続けていく。荒海に揉まれながら、神を畏れ「自然体」で生きていく。私利私欲を捨てて・・・。

 
「ぎょ?!・・・」
2010年 10月 25日(月曜日) 19:29

「牧師室から」

2010年10月25日 友川 栄

 

 

「おい!友川!俺だよ?!」先日の夜7時半ごろ、なんと青春時代の「空手部の悪友?」から電話がありましたよ!。一瞬「ぎょ?!」とし心拍停止かと?!。学生時代、自慢ではありませんが(今ではすぐに退学でしょうなぁ?!)勉強は二の次・・・。「空手」の練習で明け暮れていましたから。午後5時から2時間以上の「地獄」のような「空手の練習」が私の「社会勉強?」。「押忍!」「押忍!」で終始。先輩に「押忍!」と叫ばないと大目玉?!。

 

「入念に準備運動」を・・・。「蹴り」「突き」「腕立て伏せ」(尋常ではない・・・)。それに人を肩車で乗せ「空手の型」で歩く。「声が低い!」「友川!何だ!テメェ~は!」「遊んでいるんじぇねぇ~ぞ~?!」と後方から蹴りが飛んでくる。「蹴飛ばされて」も「押忍!」と御礼を?!何とも意味不明な練習・・・?。今なら「人権問題」で訴訟もの?!。気を抜くと「鉄拳」「蹴り」が前後から飛んでくる。「びびりまくり!」でしたね?!

 

「一人がこける」と連帯責任ですから。特に「腹筋練習」が「恐怖」そのもの・・・。「今振り返ると「空手」で体を鍛えられたと同時に「悪友?の絆」の大切さを教えられましたね。「空手」は「型」という「基本」がある。それを何度も何度も繰り返し体に叩き込まされました。空手は「足腰」の柔軟さと強靭さが不可欠なのですよ。「足腰」を鍛える、そこが味噌・・・。その「基本」を「しっかり」と体で覚えましたねぇ。

 

信仰も「空手」と共通しているところがある。信仰の「足腰」が弱いと全てが「ふにゃ?ふにゃ」に?!「足腰」を鍛えるのはどこ?。それは「神を礼拝」することで会得する?!。聖書を精読することも不可欠ですが、毎週、共に「礼拝」に与るところから「強靭な信仰」が身についていく。見えないが神が今も生きて働いていることを信じて「世の大海原」を歩んでいく。神に祈り助けをいただくことも。色々な人々から「助言」「励まし」「叱責」(長引くと、めげます?!クリスチャンにも「潔癖症」という重症が?!先生が、それでは・・・?よくご存知で!。「悶々病?」で診察を受けることも?!)を受けながら前進する。

 

また、信仰に「行動」が伴わないと無用の長物ですぞ?!。「頭でっかち」ではいただけない。イエス・キリストが語ったみ言葉とみ業を味わいながら「自分」なりに実践を。「自己中?」は「泥棒」ですぞ!。時間、お金、才能などを惜しみなくささげる。「えっ?!」高齢で「もう体が動けません?!」。動けなくとも「いい!」。「有難う!」と言葉を返せば?!最後は他人のお世話に。他者に委ねることも信仰?!「ぎょ?!」と恥じ入りながら・・・。

 
「頑張らずに・・・」
2010年 10月 18日(月曜日) 08:00

「牧師室から」

2010年10月18日 友川 栄

 

 

2人の日本人(根岸栄一氏と鈴木章氏)が、ノーベル科学賞を受賞しました。医薬品(降圧剤)や液晶(テレビやパソコン)農薬などを商品化した基礎的研究に多大の貢献をしたという。二人とも50年ほど前に、米国のパデュー大学に留学してハーバート・ブラウン教授に師事し大きな影響を受けたという。地味で息の長い研究が実を結んだのでしょう。

 

人生はある人物との出会いで大きく変わることがある!。生きた方が完全に変わることが・・・。少し前まで、高齢者が変わるのは「ほぼ不可能?!」と堅く信じていました!。でも、先日、西原由記子先生と久しぶりに出会い、それは「自分の頑なな思い込み」と気付きましたね。一種の驕りでしょうか?。高齢になると、体力、気力は減退します。若い人のように「がむしゃら」に「元気溌溂」にとはいきません。「髪は抜け」「歯は抜け」抜けないのは「疲れ」だけの身体?!。私の場合は「顔」まで「複雑骨折」?!。

 

病気をして「数日寝込む」ことも度々。ひどく「落ち込む」ことも・・・。神を信じていても「浮き沈み」の連続ですよ。そんな時には「感情の波」に身を任せたらいい。いつかは皆「病気」になる。若いときに培った誇りや経歴や夢など一つひとつ捨てていく。高齢になればなるほど、深い悲しみを経験することも・・・。これも人生の宿命でしょうか?!。だからこそ「信仰」は必要なのですよ。

 

神との出会い(毎週日曜日の礼拝)で新しくされる。それを真摯にゆったりと受け止めていく。神の聖霊が「神を礼拝」する者の魂に入り込む。人間の思いを超えて働く聖霊の力を信じて「毎週、毎週」礼拝に参加する。時間はかかりますよ。「気分」が「信仰」を支えているのではありません。「楽しい」だけが「信仰の背骨」ではないのですから?!。「礼拝者」が多いことは嬉しいことですが、「人数」が教会の試金石でもありませんので?!。

 

人間は常に「誘惑に翻弄される」ことを肝に銘じておかなければ?!。最大の誘惑は「自分の思い込み」?!。偏った思考パターンですよ。それは自分一人では分からない。他者に指摘してもらわないと気付かない。自分が分かっていると思う人ほど「高慢な人」?!。経験や経歴などで武装して「頑固」になってしまう?!。自分に見えない世界もあるもの。人生には「海図」がない。だから面白い。将来は不透明ですが、水先案内がいることを知っているのが「クリスチャン」では・・・。ハーバート・ブラウン教授の口癖は「頑張りすぎないように?!」だったとか?!。「頑張らず?」にいきましょう。神を仰ぎ見て?!

 
「雑音?細い声?どっちを?!」
2010年 10月 11日(月曜日) 08:00

「牧師室から」

2010年10月11日 友川 栄

 

大リーグで活躍中のイチローが10年連続の日米通算「200本安打」を達成しました。これは凄い記録ですよ。恐らくイチローは今後「とんでもない記録」を打ち立てるのではと期待しています。これにはイチローの想像を絶する練習と万全な健康管理があって初めて達成できた偉業でしょう。また、奥様の支え(NHKの番組で報じていましたが、毎朝同じ味のカレーを調理しているそうですよ!結婚してからほぼ毎日!)があって可能だったのでしょうか。内助の功ですよ。ファンの声援も大きな励みになったことでしょう。

 

信仰も同じではないでしょうか。信仰は自分の「信念」や「信頼」だけでは続きしません。自分が揺らぐことが多々あるからですよ。病気をしたり、経済的な逼迫、家族の扶養、老後の不安等など・・・悩みをあげればきりがありません。では「信仰」はどこで支えるのでしょうか。信仰は「外から来る」という趣旨のことを述べている人がいます。つまり「キリスト・イエスの信仰」。イエスの信仰が私たちの信仰を支えているという。イエスの愛は不動?!。自分の強い神への「信念」や「信頼」ではありません。そんなものは、些細な試練に出会うと直ぐ霧散霧消してしまう。それほど人間は弱くて身勝手ですから?!。

 

だから「教会」が必要なのではないでしょうか。日曜日ごとに「神を崇め」聖書を通して「神の言葉」を聴く。罪人の只中に「イエス・キリスト」がいたもうこと信じて集う。その繰り返しですよ。時には「マンネリ病」や「怠慢病」「驕り病」「愚痴の病」などにはまり込む?!。私の場合は「怠慢?」という「生活習慣病」でしょうか。誰かに引っ張ってもらわないと「本」も読めなくなりました・・・。某先生とのK・バルトの「読書会」は最高の刺激ですよ。某先生の「マグマ」のような「熱気?」が「軟弱」な私の心を「しゃき!」としてくれます。「軟体牧師?」が「怪獣牧師?」(噛み付いたりして?)に変貌?!

 

「マンネリ病」を罹っても、ある人の「元気:空元気?」に接することで励まされるもの。また「驕り病」になった時に「神の一撃」を喰らうことも。「病」や「他者との衝突」(還暦過ぎると応えま~す?!)を通して、自分の「弱さや頑なさ」に気付く・・・。崩されて、初めて他者に「支えられている」実感が沸いてくる。「教会」も罪人の集まり「意見の対立」や「感情の行き違い」が起こることも。「クリスチャン」の集いが「天国」と思うのは幻想?!。「違い」があるからこそ「衝突」が起きる。それほど「多様な賜物!」があると考えればいい。「神の言葉」から無尽蔵の力と慰めを受けるのが大切?!風や地震や火(膨大な情報という雑音?)ではなく神の「細い声!」を聞きながらですが・・・?

 
「うきうき?!嫌だなぁ?!さて、どっち?!」
2010年 10月 04日(月曜日) 15:47

「牧師室から」

2010年10月04日 友川 栄

 

西原由記子先生を招いての「自殺防止に関する講演会 IN 下関」は実に中身の濃いものでしたね。長府教会での講演会も素晴らしかったですよ。講演会後の「分かち合い」が良かった?!。「泊りがけ」で研修を受けたいと思ったほど・・・。全員「げっそり」痩せたりして???。皆さん「・・使用後?」の状態に戻ったら「大喜び?!」でしょうなぁ。「もやし?」のようになったりして・・・。西原先生は、悩んでいる人の気持ちを「無条件無批判」で「感情をしっかり」と受け止めることを再三再四述べておりましたが、簡単なようでこれが実は至難の業なのですよ。ほぼ不可能と言っていいでしょうか?!。

 

私たちは幼児期より「両親や身近な人」から他者への対応を身体で覚えてきている。反発しながらも同じ対応をする。無意識のうちに「ひょい!」と顔を出す。心の片隅に「ねばならない!」という考えでしょうか。両親等から受け継いだ価値観ですよ。残念ながら「クリスチャン」にも、それが見受けられることも。いや「信仰」という名でそれを「補強」してしまう?!。「教会は・・・でなければ」「牧師は・・・でなければ」「妻や夫、子どもは・・・でなければ」「親は・・・でなければ」という固定観念を持つことが・・・。

 

困るのは「・・・信仰問答?」で自己絶対化してしまうこと。深く学ぶとそうではない筈なのですがねぇ?!。学びを通して「頑な思い込み?」が崩されなければ、本当の学びとはいえない?!。「頭でっかち」じゃ頂けないのでは???。キリスト教の「福音」もそうですよ・・・。「神の愛」が魂の奥深く根付くと「柔軟で自由」になるのですが、逆に「頑固」になる?「困ります」なぁ。信仰も単なる「詰め込み式のお勉強」では駄目ですよ。さりとて理性が欠落している「怪しげな霊性」も危ない?!。

 

「感情」をしっかり受け止めるとは「感情的」と違う。でも「気持ち:感情」も非常に大切ですよ?!。悶々として悩んでいる人は「辛い気持ち」をしっかりと受け止めて欲しい。西原先生がいみじくも話していましたが「辛い気持ちを聴いてもらえないことが、どんなにしんどいことか?!」が「自殺防止センター」を継続してきた「エネルギー」となっているとか・・・。思わず心の中で「拍手喝采!」をしました。西原先生も自分の傾聴が「完璧!」などとは毛頭考えていない。いつも最後は「神さま、後は宜しくお願いいたします!」と祈るという。また、年齢を重ねても「人間」は変わると「断言」を?!。脳科学者の茂木健一郎氏曰く、人間は「不確実性」に対して二種類の対応をするという。「うきうき!」するか「嫌だなぁ!」と不安を抱くか?!皆さんは「どっち?」を優先?!

 
「神が穴場(逃れ場!)・・・?!」
2010年 9月 27日(月曜日) 14:06

「牧師室から」

2010年09月27日 友川 栄

 

下関丸山教会は多くの歴代牧師、クリスチャンの方々に支えられ106年という歴史の風雪をくぐりぬけてきました。天に召された牧師先生や信仰の先達者はこの教会を愛し、神を崇め、主にある交わりを通して、この世の荒海を駆け抜けていったことでしょう。笑いがあり、悲しみあり、喜びあり、涙することも。でも、神が見えない御手をもって試練などで揺れ動くクリスチャンと共に歩んでくださった。そこが下関丸山教会の力の源?!

 

私たちも「人生のマラソン」を走り続けている・・・。途中で、疲れ果て「歩く」こともありましょう。躓き、倒れ、回り道をすることも・・・。あるいは他者と比較して「どうして遅いのか?」「なぜ、駄目なのか?」「あの人は良いな!」などと浮き沈みをすることも度々?!。あるいは途中棄権をすることもあるかもしれません。それでも「いい」!!。この「レース(信仰のレース!)」は何度でもやり直せるのですから・・・。

 

大切なことは人生の馳せ場を自分のペースで走ること。神から与えられた賜物を活かし「ゴール」を目指して走る。疲れたら歩いてもいい。「ゆっくり」「しっかり」と、時には草花を愛でたり、頬に当たるそよ風の心地よさを感じながら・・・。たまに「寝転んで」空を見上げても「いい!」。今の日本社会は全速力で「走り続ける」ことを求めていませんか?!。「早く」「間違いなく」「正確に」「失敗せずに」を求める風潮では。そのくせ「自分の間違い」を「他人の責任」にする。また逆に、過度に「自己卑下」をすることも。

 

自分に「厳しい」人に限って「他人」にも「厳しい」ことがある。些細な間違いを「許せない」。自分が許せないから「他者」も糾弾してしまう。また「自己責任」をせまり「非人間化」してしまう。生きた人間を「物」扱いにする。どこか「間違って」いませんか、この生き方?!主イエスの「福音」はそれに「NO!」と挑戦しているのですよ。更に深刻なのは「愛の福音」を説く教会が息苦しい場に。「のんびり」いきましょうよ?!。「へま?」や「ドジ?」「失敗」をしても「目を三角?」にして責めるのは止めましょう。

 

先生の場合は「顔が緩んでいる」のでは?と言われると「穴」にでも入りたいですなぁ。

 

間髪を入れずに某姉から「どうぞ、穴を掘って!」ください、と言われました?!下関丸山教会のメンバーは「冗談」が通じるので「居心地」が「いい」?!。掘削機を借りて掘りますか。「愚痴」「不満」「意地悪」「文句」の「はけ口穴」を・・・。大きな「穴」が必要でしょうなぁ。それよりも効果的な「穴場」を教えましょうか?。「神が穴場」ですよ?!

 
「いい・・だなぁ?!」
2010年 9月 21日(火曜日) 20:04

「牧師室から」

2010年09月21日 友川 栄

 

今年の猛暑は想像を絶するものでしたねぇ?!昨年はエアコンが利かず、時折一階の台所で寝ました。一階は意外と涼しいし、更に薄暗いとくる?。昨年は妻が入院していましたから、それが出来たのかも知れません。しかし、今年の夏は「暑い!」「暑い!」・・・。たまに「一階で寝よう!」と勧めるが、妻は「二階がいい」と首を立てに振らない。二人とも「暑さ」との「我慢大会」ですはぁ。もう少しで二人とも「干物」になったかも?!「するめ」のように「噛めば噛むほど」味(苦味?加齢臭も加わり?)が出たりして・・・。

 

でも、教会員の暖かい配慮で9月9日(木)に新しいエアコンを設置しました。まさに「いい、牧師館だなぁ?!」ですよ。教会の皆さんに、心から感謝しています。お陰で妻は「Zzzz・・・」と物凄い「音?」を出して睡眠を。余りの騒音で寝つかれずに、真夜中に「あちら、こちら」と「徘徊」する始末・・・。昼も「うろうろ」と徘徊しますが???。

 

「冗談」は顔だけにして、先日、西原由記子先生の「自殺防止」の講演会が行われました?!。西原先生の「エネルギー」は「物凄い」?!先生とは14年前に「ひょんな」ことで出会う?!。清里で行われたカウンセリング研修に参加、リーダーが西原先生でした。四泊五日にわたる「長丁場」。「議題」もない、同じメンバーの「感受性訓練」で、一日に合計8時間ほど(記憶違いなら、失礼をば!)の「研修」ですよ。「地獄」でしたねぇ!。

 

「議題」なしですから、何をどう進めたら良いのか「さっぱり」分からない。徐々に、自分が「丸裸」にされるような恐怖感が出てくる・・・。「鎧」を着ていましたね。「劣等感」の塊でしたからねぇ。「嫌われたくない!」思いがあったのでしょうなぁ!。言葉を「投げかけられても」体裁よく「ふる?」だけ・・・。「しっかり」と答えずに「受け流す」だけですから?!。「糠に釘」ですよ。西原先生の「友川さん、どうして受け止めないの?」「のらりくらりは駄目!」「なぜ、気持ちを返さないの?」という言葉に「ペシャンコ」に。

 

「ああ、そうか?」自分を飾りたい、「弱さ」を見破られたくない?!と徐々に気付く。「えぇ格好をしたい!」思いがあった?!。その後、某いのちの電話の立ち上げ、ボランティアとして奉仕。横浜に赴任しても「いのちの電話」で奉仕を続けましたが、まだまだ感情に「寄り添う」のは夢のまた夢?!。「見栄えのいい」自分を追いかけてきた??。「いい牧師!だなぁ」と評価されたい思いがあった。最近は「いい加減だなぁ!」で「いい!」と開き直りを。でも、今回は「いい講演会だなぁ?!」だったのでは?!。

 
「うひゃ!降参・・・?!」
2010年 9月 13日(月曜日) 22:41

「牧師室から」

2010年09月13日 友川 栄

 

8月上旬から中旬にかけて礼拝堂の塔の屋根や外壁の修理をいたしました。業者が「しっかり」した足場を組んで屋根の補修と外壁のペンキ塗りを・・・。当教会のT兄は長年、礼拝堂や牧師館の修理をなさってきた「プロフェッショナル」?!それも半端ではない。そこらの「儲け第一主義業者?」など到底「太刀打ち」できない「凄腕」(頑固一徹?)ですはぁ!。「手抜き仕事」をするものなら「ガッツン?!」と「拳骨」を・・・。

 

今年の夏は特に猛暑でしたから・・・。日中は「お茶」をたらふく補給しながら「ぼちぼち」と・・・。「熱中症」を心配してか、夕方と早朝に「せっせ」「せっせ」と集中的に補修?!朝は6時頃から、腰に命綱を巻きながら屋根に登り「こつこつ」修理を、あの「頑固さ?」には脱帽(脱毛?私の場合は、後ろが激しい???)。私は内心「大丈夫?」と心配を?!。なにしろモーセが「召し」を受けた年に手の届く「熟年青年?」ですから。「ああ!危ないなぁ!」と「ひや、ひや」もの?!。「落ちたら?」どうするの???。

 

下から見ると「高い」とは思えない礼拝堂の塔ですが、足場を恐る恐る登っていくと「ぞわ!」とするほどの高さ・・・。「高所恐怖症」の私は足がすくみ「ちびっちゃう?」高さ!。T兄は高さなど「意に介する」ことなく、すたすたと「登っていく」。それも怠惰な私が「大口開いて」「Zzz・・・」している早朝に「一仕事」ですから?!。負けずに「早起き」と意気込むのですが・・・。へなへな「身体」が「休養」を必要なのでしょうか、惨敗???。

 

「睡魔」には勝てず「爆睡?」を・・・。「こら!牧師。起きろ!」と喝を入れられるところですが、そこが「優しい?!」T兄。静かに、黙々と「お仕事」を???。それだけに「罪責感」を抱く△×◎・・。「忍びの者?」のように梯子を「すたすた」と登り、「瓦と瓦の隙間にシリコン」を塗る早業はさすが「長州魂?」ですかねぇ!。信仰の先輩たちが建てた「ランバス記念会堂」を守ろうとする「ど根性?」のなせる業でしょうか?!。下関丸山教会の信仰の先達者の背中を見て体得した「強靭な信仰」でしょうなぁ!。

 

脈々と引き継がれてきた「信仰の底力」?!いや、「教会」を愛する所以でしょう。凄いなぁ!、と「唯ただ」感心するのみ。最後は、T兄とI兄と私で十字架(少し傾いている十字架:私が赴任して傾いたとの疑惑が?!)にペンキを塗りました。塔に登る前、共に祈りを。網シートが無い礼拝堂の塔は「足がすくむ?!」高さ?!。「高所恐怖症」と「試練恐怖症?」に「うひゃ!」とすぐ白旗をあげる「不信仰」に恥じ入るばかり・・・?!。

 
「ご来会ください?!」
2010年 9月 10日(金曜日) 04:18

「牧師室から」

2010年09月10日 友川 栄

 

東京自殺防止センター創設者の西原由記子先生をお迎えして「自殺防止に関する講演会 IN 下関」が当教会で9月19日(日)午後2時から開催いたします。一方的に聞くのでなく「分かち合い」も考えていますので、是非ご参加ください。自殺の実態や防止対策を学ぶという趣旨もありますが、下関にも「いのちの電話」や「自殺防止センター」が発足する端緒となればと思い企画しました。自殺者が年間3万人は異常?!それも10年以上ですから。それを憂慮して行政サイドで精一杯ご奉仕をしている方々も多い。「心の相談」等で孤軍奮闘して人もおられるはず。しかし、これだけでは限界があるのでは・・・。

 

幸い「いのちの電話」や「自殺防止センター」は長い実績がある。今まで試行錯誤してきた(今でも試行錯誤の連続でしょうが?!)蓄積があります。これを活かさない手はありません。開設当初「いのちの電話」で「素人」が相談に関わるのは「危険」という専門家からの反発があったとか?!。それは一面当たっていますが、専門家が出来ないことが「素人」だからこそ見えるところもある。

 

最近は、精神科医と相談員が共に協力しあって進めているのが現状ですから。また、相談員は誰でも「いい」とは限りません。心に「深い傷」を負っている人は無理でしょう。若くて社会経験が無い人は「務まらない」。また、色々な人生経験があっても、逆に「弊害」になってしまうことも。(私の心は頑なで「ごつごつ」ですから、話になりませんが。顔も?!)研修は長く厳しいもの。言葉を「理解する」のでは無く「気持ち」に共感する「感受性訓練」が不可欠。これが「しんどい」訓練なのですよ。「丸裸」にされるのですから。

 

「鎧を」着ているのでしょうねぇ?!。「劣等感」「自負心」「トラウマ」などなど。それに気付くことが「大変」なのですよ。「信仰」があっても、そこを気付かずにいる人も多い。しかし、カウンセリングが「万能薬」ではありませんので、ご用心を?!。されど「小馬鹿」には出来ませんぞ。「自殺防止に関する講演会 IN 下関」にご参加してみてください。自殺の実態もさることながら、言葉や理屈で人の苦しみを共感出来ないことを知るだけでも聞く価値はありますよ?!。多くの方々のご来会をお待ちしています。「自殺防止週間」の一環にお役に立てれば幸いですね。

 
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